徳川時代は鎖国によって外国との交流は長崎の出島に限られていた。出島の存在は約200年間(1641〜1859)の永きに渡る。この間、国内の植物は出島経由でヨーロッパへと船出した。
出島三学者と言われる「ケンペル(1690〜1692)・ツンベルク(1775〜1776)・シーボルト(1823〜1828・1859〜1862)」は、西洋文化を紹介する傍ら、日本の文化や動植物を西欧に広めたことで甚大 な功績がある。明治維新を待たねばならない日本の植物学界に代わって、西欧に日本の植物を紹介したのが彼ら三学者であった。
8代将軍徳川吉宗(1716〜1745)は、キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁。鎖国を少しだけ緩和したことで長崎を中心に蘭学ブームが起きている。
1855年「日欄和親条約締結」により開国。日本の植物学界の幕開けです。ソビエトの植物学者マキシモビッチは早速函館に来日(1860〜1864)。
また、英国の外交官アーネストサトウ(1862〜1883・1895〜1900)は、明治維新を外から見つめてきたことで「一外交官の見た明治維新」を書き記している。維新の内外の情勢を知る上で貴重な資料としての評価が高い。在日中に誕生したのが武田久吉先生(日本山岳会長・高山植物学者)であるが詳しくは後述。
今回の「植物談義」は、数多ある「ロマン・絆」の中から日常的に係わりのある「歴史的・学術的」な事績を辿ってみることにした。「開国前後」の代表的な「事績」をあげると・・。
1.生活に係わる日本産植物との「ロマン&絆」・・ #
◆ 日本の植生を初めて記録したのが「魏志倭人伝」・・
女王卑弥呼(180~240年頃)は知っていた・・
魏の使者一行は、伊都国(糸島郡)から奴国(博多)と不弥国(宇美町付近か)を経由したことはほぼ正確だが、この先が諸説あって定かでない。
記録によれば、生活様式や稲・カラムシの栽培、蚕の飼育、糸を紡ぎ布・絹・真綿などを作ること、さらに樹木はクス・トチ・タブ・ボケ・クヌギ・スギ・カシ・ヤマグワ・カエデ・ササ・ヤダケなどの種類と、ショウガ・タチバナ・サンショウ・ミョウガなどの作物の栽培も明らかであり、当時の様子が有り有りと浮かんでくる。因みに奴国は2万戸、卑弥呼は7万戸の都市に居住していたという。
女王卑弥呼の倭国の宮殿は何処か、未だに発見されていない。魏志倭人伝の方向や距離に不正確さがあって、経路が定まらないため、九州説・近畿説に二分されている。
ア) 稲作は縄文時代から弥生への時代区分の一つになっている。女王卑弥呼のころにはかなり生産量が向上していたものと想定。縄文人の主食であった「クリの実」の栽培は必要性が無くなったのか。それとも気候不順に見舞われて「トチ」に取って代わったのか。
イ)日本で養蚕が始まったのは弥生時代の前期で、場所は九州北部と言われている。この頃の蚕はヤママユガと想定。クヌギ・コナラ・カシワ・シラカシなどの葉を食葉として成育している。天蚕糸から絹・真綿が生産されていたとは、相当の技術を伺い知ることができる。
ウ)また、カイコガの伝来は稲作と同じ頃ではないかとする説もある。食物の葉は桑の木である。カイコは人間が飼育した伝統の1種であり、自然に生活できない稔性に至り、カイコは一匹・二匹ではなく、一頭・二頭という。両者の時代考証の必要あり。
エ)魏志倭人伝の樹種は、現代の照葉樹林の構成と変わったものではない。今から約1800年前の常緑樹と落葉樹の混生は現代の林相に近い。
オ)カラムシの茎から繊維を採集し、織物の材料に使ったことは戦前から戦中に盛んであったという。絹製品に比べて可なり劣悪であるが、普段着に使ったのではと想像。
★起承転結・・日本に文字が無い時代→日本の記録・魏志倭人伝が伝える→3世紀の生活風情から豊さを察知→女性が頭になる情勢は今も変わりなし→照葉樹林文化圏成立→皿倉山の山麓の先に耶馬台国が在るや、無しや。
◆イチョウの葉と詩人ゲーテ(1749~1832年)とのロマン
イチョウはイチョウ科・イチョウ属の落葉高木・雌雄異株で植物分類上はただ1種で構成。
約2億1300万年前の化石が発見されていることから「生きた化石」と言われても不思議ではない。中国に1本現存=原産。このイチョウの葉が何とあの有名な「詩人ゲーテ」と関係ありとするから興味津々。ところで「どんな絡み」かを遡及しないと解明できないので、少しばかり付き合ってほしい。
ア) 出島に派遣された医師のケンペル(1690~1692)は、帰国の際に「イチョウ」を持ち帰ったところから関連が始まる。ケンペルは2回も江戸参府に同行し「徳川綱吉」に謁見。
イ)著作「日本誌」は英語・フランス・オランダ・ドイツの各国版に訳されて出版。ゲーテ・カント・モンテスキューらも愛読し、19世紀のジャポニズムに繋がっていく。
ウ)66才の文豪ゲーテは、若き人妻マリアンネに贈った詩「銀杏」は、熱烈な慕情を寄せた作品として有名。このラブレターに2枚の葉を添えたところに「日本の銀杏」が絡んでいるから「絆」の奥は深いものなんです。
エ)「銀杏・Ginkgo biloba」は1819年刊行の「西東詩集」に収められているという。以 下の項は深津正・小林義雄共著「木の名の由来」から「銀杏」の翻訳を引用。
オ)「東の国からわが庭に移し植えられたこの木の葉には、知識人の喜びそうな、秘密めいた意味合いが感じられます。途中省略・・貴方は、私の詩に私が一人にして二人であることを感じられませんか。」・・・(詩人の文は難しいですね)
★起承転結・・イチョウ→出島の医師ケンペル→ドイツのゲーテの庭→66才のラブレター→「銀杏の2枚の葉を同封」→結果は??。
◆シャラノキと仏教界の三大聖樹・から・平家物語へ続く・・
仏教界の三大聖樹は、インドボダイジュ(クワ科)・ムユウジュ(マメ科)・サラソウジュ(フタバガキ科)をいう。わが国では平家物語(作者不明・1240年前)の冒頭に「沙羅双樹」が登場・・。印度菩提樹・無憂樹とも日本には自生していない樹種である。
ア)「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りをあらわす。奢れる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ。偏ひとえに風の前の塵におなじ。」・・の出筆は鎌倉時代に成立したと思われる「軍記物語」にある。
イ)沙羅双樹とは釈迦入滅の地の東西南北に二株ずつ生えていたので双樹と呼び、計8本の花が死の直前には真っ白に変わったという伝説がある。
ウ)「祇園精舎」の正式名は、祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)で釈迦が説法を行ったとされる場所。徳川三代将軍家光は仏教の聖地「祇園精舎」の視察を命じ、その後は「アンコール・ワット」 だと誤認して明治まで続く。
エ)祇園天神は祇園精舎の守護神。京都の祇園神社(八坂神社・天王神社とも)は祇園天神を祀る神社で、毎年祇園祭の7月16日は逆鉾巡幸祭で賑わっている。門前町が祇園。
オ)1185年3月24日・壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。約30年後に「平家物語」を創作。「沙羅双樹」は釈迦入滅の際の涅槃の場所を表しており、平家滅亡を掛けた意味だろうか・・。
カ)各地の寺院ではナツツバキが代用として植えることが多い。そのためナツツバキを沙羅双樹と呼んでいるが全く別種である。
キ)落葉樹のナツツバキ属の3種は、日本の固有種のヒメシャラ(Stewartia monadelpha)、 自生種のナツツバキ(S. pseudocamellia)・ヒコサンヒメシャラ(S.serrata)である。
ク)帆柱森林植物園でも観察することができる樹種であり、開花期は5~6~7月に跨っている。
★起承転結・・釈迦入滅のさい臥床がしょうの四辺に沙羅双樹→平家物語の冒頭に登場→家光とアンコールワットの誤認→京都八坂神社の祇園祭→落葉性ナツツバキ
◆福岡藩士 貝原益軒(1630~1714・本草学者・儒学者)はツバキの名付け親・・
福岡藩の藩医であり本草学者で儒学者の貝原益軒先生は、ツバキの名付け親でもある。藩命により「黒田家譜」を編纂、自分の足で歩き、目で確かめて、世のためになること、人に判りやすい文体で多くの著書を手がけている。
菜譜・花譜などの「本草書」、教育書の「養生訓」、藩内を歩き回り「筑前国続風土記」を編纂。風土記は地方のいろいろな様子を書き記していて、本書は現在もたびたび活用している。
ア)日本原産のツバキ属は、ヤブツバキ(Camellia japonica)・ユキツバキ(Camellia rusticana)・サザンカ(Camellia sasanqua)の3種は常緑性である。
イ)貝原益軒先生は、葉が厚いので「あつば木」といい、「あ」が省略されて「ツバキ」になったと説明。新井白石は葉に光沢があるので「艶葉木・つやばぎ」、転じて「ツバキ」であるとの説。他に朝鮮語のツバキ「ton-baik」が転訛して日本語のツバキになったという深津正先生の説もある。
ウ)「筑前国続風土記」には帆柱山系の記事が3個所ある。アツモリソウ・クマガエソウの自生種のこと、蠣殻の付着した岩石がゴロゴロしていること、山検分の結果権現山は郡中第一の高山なり・・とあるが、現在は様子が一変している。
エ)熊谷草・敦盛草の発見は未だなし。蠣殻の件は海底が隆起した山ではないのでありえない話し。戦時中に権現山頂は削られたので、現在は皿倉山の方が約4m高い、など夢は未来に残すことにして「熊谷草・敦盛草」の発見に期待したい。
★起承転結・・福岡藩士・貝原益軒→3代目藩主黒田光之に許され藩医として帰藩→実証主義 的な内面を「大和本草」に現れる→名言の代表・朝の早起きは栄えるしるしなり。人に礼法 あれば悪事は生じない。自ら楽しみ、人を楽しませてこそ、人として生まれた甲斐がある。 →福岡藩のため生涯をつくす。
◆植物学界と出島のシーボルト医師との関係・・
なぜオランダ国に限って交易ができたか・
貝原益軒に遅れること約1世紀後に、長崎の出島に医師シーボルト(1823~1828 ・1859~1862)は着任。オランダ国の貿易にドイツ生まれの「フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト」が如何なる理由で採用されたのか不思議な気がする。
ア)1635年の鎖国令以降ポルトガル人は追放され、1641年よりオランダは日本との貿易を独占。島原の乱でオランダ船が原城めがけて艦砲射撃をし、幕府の味方をしたことが大きい。
イ)オランダにとって日本との貿易は、金銀の取得で経済的な繁栄をもたらし、キリスト教諸国の非難を浴びても、継続するに値するものがあった。
ウ)日本との関係を更に深めるための画策を練り、歓迎される文化政策の一環として西洋式の医療と医学の伝授の振興を考慮した。そこに登場するのが近代医術と科学的調査をも担うことができる「ドイツ人医師シーボルト」に白羽の矢が立つた。
エ)出島三学者の一人「F・シーボルト(1823~1828・1859~1862)」は、前任者の「ケンペル(1690~1692)・ツンベルク(1775~1776)」の著書(日本誌・日本植物誌・日本動物誌)の予備知識をもって着任。2回も着任しているが、後の任務は外交官で長男を同行している。
オ)シーボルトの活躍は派遣の任務遂行のため、出島の内外に亘り、日本最初の西洋医学の鳴滝塾を創設。医学や動植物の講義、外科手術の体験などを門人に伝授。医学以外の分野も含めて、オランダ語の博士論文や学位論文の提出を求めた。
カ)シーボルトはこうして日本各地の植物やその他の諸物事に係わる情報を集めることができた。滞在中に遊女「其扇」を妻に迎え、娘のイネを授かった。後に女医となる。
キ)シーボルトの収集した標本は、凡そ一万点と推定。生きた植物は航海中に失われるが、2千株ほどの移出に成功した。標本の大半はオランダ国立植物学博物館ライデン大学分館に収蔵されている。
ク)1828年シーボルト事件発生。追放されたとき「イネは2才6ヶ月」であった。持ち帰った地図類には「伊能忠敬測量の日本地図」など160種類もあった。
ケ)1859年再度来日、シーボルト66才、産科医イネ32才のときであった。外交官の任務も1862年には終えて離日、1866年に生涯をとじる。
★起承転結・・オランダ国の特務を背負って→前任者の成果から「医学」を伝授→巧妙な卒業論文をオランダ語で→居ながらにして各地の情報を収集→
★・ケンペルは大豆をヨーロッパに紹介したが実用化はずつと後のこと。1854年ペリー艦隊が帰国するときも大豆を持ち帰ったが農商務省が栽培を試みたのは1896年のこと。アメリカ合衆国では20世紀以降、生産が急速に伸びて今や世界第一位の生産国になった。
2.開国後の日本産植物の「ロマン&絆」・・ #
◆イヌシデと須川長之助・ロシアの植物学者マキシモビッチとの師弟愛
明治の開国を待って諸外国のプラントハンターが大勢やってきた。その中には日本の植物に憧憬の念が強い「植物学者・輸出業者・造園業」などの関係者が続々と来日。
緑産業がこんなに賑わうことを誰も予想していなかったと思う。鎖国から開国という幕開けはいろんな分野で文明開化となり、開港の窓口からあらゆる植物が全世界に輸出していった。
その中で「ユリ根」が輸出品として外貨を稼いだことは想像もつかない昔の事績である。今回の課題は日本とロシアとの師弟愛が課題である。(007・ロシアより愛を込めて・・追想)
ア)カール・ヨハン・マキシモビッチ(1827~1891)は、19世紀のロシアの植物学者で専門は被子植物の分類。極東アジア地域(アムール地方~日本)を現地調査、数多くの新種について学名を命名した。
イ)日本の開国を聞きつけ、日本の植物相調査のためウラジオストックから函館へ向かう。 1860年から64年まで日本に滞在し、函館から長崎までの植物調査を行う。シーボルトとも長崎で会っている。
ウ)国内の調査旅行は開国後の事もあって「助手・須川長之助」を雇い、長崎へ同行の折り雲仙・阿蘇・霧島にも調査範囲を広げている。
エ)出島の3学者の日本国内植物相の調査研究を引継ぎながら、東アジア全域にわたる朝鮮・満州・中国の調査研究を進めたことで、日本の植物相の比較と地理的位置づけが可能になった。
オ)シーボルトが出島在任中に川原慶賀に画いて貰った植物写生画は、芸術的価値が高いことから散逸を防ぐ意味からロシアのコマロフ植物学研究所に収蔵されている。 また、ツンベルクが描かせた日本の採集品図譜も入手して研究所で収蔵。
カ)草創期の日本植物学者は、新種や変種の同定にあたりマキシモビッチに標本を送り指導を受けたことは、日本の植物学の向上に大きく貢献したことは今に引き継がれている。
キ)明治期の矢田部良吉・松村任三・宮部金吾らの東大研究室は度々マキシモビッチの指導を受けたが、それに加えて牧野富太郎は個人として師事を受けている。
マルバマンネングサ(Sedum makino Maxim)は新種としてマキシモビッチが命名し、献名まで受けたことに殊のほか感激していた、という。
ク)植物採集の手ほどきを受けた須川長之助は、マチシモピッチの手足となって各地で採集して、博士の帰国後も一人で各地を廻り標本をサンクトペテルブルクへ送り続けた。
ケ)マキシモビツチは東アジア地域の植物を系統的に分類し2300種を命名した。また須川長之助の功績を称えて献名した植物種にイヌシデ(Carpinus tschonoskii Maxim)がある。
他に名付けた樹種は、オニグルミ・キカラスウリ・ナツエビネ・メギ・などは皿倉山でも観察できるので、学名「・・・Maxim」を確認してほしい。
★起承転結・・ロシアの植物学者Maximowicz→函館の須川長之助→長崎のシーボルトらの標本を収納保存→日本植物学会に寄与→特に牧野富太郎→日本とロシアの師弟愛
◆植物学者・武田久吉(1883~1972)と
英国外交官アーネストサトウとの親子愛・・
武田久吉は東京麹町でアーネストサトウを父として、日本人武田兼を母として明治16年に誕生。植物学者で登山家で第6代日本山岳会会長を歴任し、また尾瀬の自然保護に貢献したことは有名である。
ア)東京外語大に学び、明治42年に父サトウの招きでロンドン大学・バーミンガム大学に留学し、45年には皇立キュー植物園で本格的に植物学を学ぶ。
イ)1905年に同志と共に日本山岳会を創立。各地の山に登り高山植物を研究し「原色高山植物図鑑」を著作。また、植物学教授として北大・京大・九大で教鞭をとる。
ウ)1862年にアーネスト・サトウが日本に着任した当時は英国駐日公使館の書記官であた。着任早々に「生麦事件」が発生。
エ)薩摩との交渉のため7隻の艦隊を組織して鹿児島に向かったが交渉は決裂。薩英戦争勃発。鹿児島湾岸の砲台を攻撃し、市街地の大火災を目撃した。
オ)下関戦争の4カ国艦隊総司令官つきの通訳として同行。英仏蘭の陸戦隊・海兵隊による前田村の砲台の破壊に同行し、長州藩との講和交渉では高杉晋作を相手に通訳を務めた。
カ)1865年には通訳官に昇進。維新前に伊藤博文・井上馨・後藤象二郎・西郷隆盛らと会うなど情報収集に走った。
キ)明治維新前後の国内情勢調査のため横浜を拠点に、また北は国後・択捉島のロシア占領の真偽のため、北越戦争下の新潟を視察のため、神戸・大阪・京都・鹿児島・長崎へと通訳官の用務と情報収集のため各地を旅行。
ク)維新政府側の要人との会見は、三条実美・岩倉具視・木戸孝充・大隈重信・桂小五郎・品川弥二郎・大久保利通・西郷隆盛・勝海舟・などと、明治天皇とパークスの謁見の通訳を努めた。
ケ)鳥羽伏見の戦いから維新戦争の展開と状況・西南戦争の終末など、外交官が一部終始を眺めたことは希有のできごとであり、「一外交官の見た明治維新・アーネストサトウ著」(岩波文庫)に詳しくまとめられている。1905年には初代の駐日英国大使に就任。
★起承転結・・明治維新前後の国内状況を見聞→第三者的立場での記録は希有(父の活躍)→(以下子息の活躍)植物学者武田久吉の誕生→尾瀬の自然保護の先駆者→日本山岳会創設
◆ハナミズキと尾崎行雄(1954年死去)・ワシントンと東京の絆・
東京市長に就任したのが1903年(M36)で、1912年(M45)の退任までの8年間は今でも最長期間の市長である。この間にアメリカ・ワシントンにソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川沿いに植樹された。
ア)この時の苗木は虫害により焼却処分された。後に3100本のサクラが植樹され、花見シーズンに咲き誇る花は、桜まつりの行事のメインとなり、当日はいろんな団体が参加するパレードで賑わっている。
イ)そのお返しとして大正時代の初めに「ハナミズキ」が日本に贈られたが、人気が上昇して現在は各地の公園や街路樹に植えられている。「日米親善の木」と名付けられている。
ウ)ミズキ科のヤマボウシと同じ仲間である。日本の山林や草原に自生する国産種と北アメリカ原産との交流産物である。
エ)尾崎行雄氏が95才まで衆議院議員を務めたのは、日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も日本記録である。1954年に亡くなっています。
◆日本植物学界の草分的な恩師牧野富太郎先生の事績
牧野先生の功績はあまりにも甚大で、かつ生誕から植物学会の重臣に至る間の解説は、この項だけで済まされるものではありません。別途、改めて記載することにしたいと考えています。
(文責 : 田代 誠一)
注:本件資料は、NPO帆柱自然公園愛護会の会員研修用にまとめたものです。作成にあたり、下記の引用・参考文献を有効に活用させていただきました。
【引用・参考文献】
・木の名の由来 深津正・小林義雄 共著・東書選書刊
・植物の世界7巻 堀川 満ほか共著・週刊朝日百科刊
・都会の花と木 田中 修著・中公新書刊
・日本の樹木 辻井達一著・中公新書刊
・シーボルト日本植物誌 大場秀章監修・ちくま学芸文庫刊
・一外交官の見た明治維新 アーネストサトウ著・岩波文庫刊