多くの植物に学名を付し、ヨーロッパ諸国で公開・・
日本の風景を描写した「風光明媚」・「白砂青松」・「山川草木」などの表現は、日本の国土が多くの森林に囲まれていることによるものです。我が国の森林率は約67%に対し、英国はわずか約10%たらずなのです。これでは緑が豊かとは言えませんね。
日本人は昔から日常生活の中に森林の恵を取り込み、伝統的な利用法をもって食料品や生活用具、漢方薬などの資源をうまく活用してきました。
日本列島に自生する植物は約4千種あるといわれていますが、同じ島国のイギリスでは数百種の植物しか自生していません。また、日本のシダ類の植生は世界的にも豊かな方であり、イギリスの約10倍、アメリカの約2倍のシダ類が生えていると言われています。
北九州地域には約250種のシダ類が生えているといわれていますが、帆柱山系にはその殆どのシダ類が成育しています。(北九州の山と自然・帆柱自然公園愛護会著より)
ヨーロッパ全域と比較しても、日本の豊かな植生にはとおく及びません。このように生い茂る植物は、早くから諸外国の羨望の的になっていました。
とりわけキクやユリは、明治期における日本最初の農産物輸出品として外貨獲得に貢献したのです。ところで鎖国中も大量の植物が出島を経由して移出されたことは意外と知られていないのです。
(写真:アオキ・雌木)
1.鎖国でもヨーロッパやロシアに移出された日本の植物・・・ #
オランダやイギリスは特に植物種に乏しく、気候風土の関係から美しい花には強い関心を抱き続けていた。17世紀頃から国家的事業として世界各国にプラントハンターを派遣。彼らは開拓意欲や冒険心を抱きながら未知の世界へ船出していったのです。
その頃の日本は1636年に鎖国を開始。以降は長崎の出島を拠点にして、清国とオランダとの交易の中から世界の情勢を僅かに知り得るだけの閉鎖状態が、何と約220年間も続いたのです。
鎖国の間、日本の植物を外国に紹介した有名人は、オランダ商館の医師であるケンペルやツンベルク、シーボルトなどですが、彼らは国家を代表する植物学・医学・博物学のエキスパートでした。出島の三学者として有名。
彼らが学会に発表したことで、日本に自生する植物の多くがヨーロッパの国々で知られるようになり、日本産の植物収集熱はしだいに高まっていったのです。
1.出島の商館医~ケンペルの頃(1690~92)
ケンペル(1651~1716 E.Kaempfer.Kaempfer)はレムゴーで牧師の子として誕生~ドイツの医者で博物学者~83年から2年間は使節団の書記としてペルシアに滞在~オランダ東インド会社の船医となる~1690年から2年余出島に滞在~この間商館長に同行し2回江戸参府。
日本の歴史、社会、政治、宗教、動植物などの観察記録を後に東洋旅行記「廻国奇観」や「日本誌」を編集著作。ヨーロッパに初めて日本を紹介した功績は多大なものがある。農産食品のダイズを初めてヨーロッパに紹介したのはケンペルであるが、食料品として普及するのには、ずっと後のことにある。
2.85年後の商館医~ツンベルクの活躍(1775~)の頃
ツンベルク(1743~1828 CarlPeter thunberg)はスウェーデンの医学者で植物学者~リンネの高弟でオランダの東インド会社の員外船医となる。1775年出島に着任。
長崎の植物種のほか合計で812種の採集植物を標本に。江戸にも往復~帰国後の年日本の植物を初めてまとめて記録した「日本植物誌」は貴重な文献。
3.鳴滝塾で医術を伝えた~シーボルトの頃(1回目1823~28)、(2回目1859~62)
シーボルト(1796~1866 P.F.von Sieboldドイツ生まれ)は大学卒業後出島商館付き医師として来日。任務のかたわら鳴滝塾を開いて診療と教育にあたる。
出島の植物園には1000種以上の植物が標本用と輸出用に育てられて いたという。 (写真:イスノキ・帆柱山で)
高野長英他の蘭学者を育てる。江戸参府のおり江戸の蘭学者とも交流を重ねるも、28年にシーボルト事件により国外追放。
オランダのライデン大学に戻って研究成果を整理し「日本」を刊行。
58年日蘭通商条約の締結の翌年再び来日。長男の英国駐日公使館員も同行。実子女医楠本いねと初めて対面。
「シーボルトが日本から送った標本や植物は、現在もライデンの王立植物標本館や植物園で大切に保管され、栽培が続けられている。」(里帰りの植物たち・堀田満著より)
《収集植物の学名・・その中の一例》
ヤエヤマブキ :Kerria japonica f.plena C.K.Schneid バラ科 ヤマブキ属 (ケンペル)
ハコネウツギ :Weigele coraeensis Thunb. スイカズラ科 タニウツギ属 (ツンベルク)
アオキ :Aucuba japonick Thunb. ミズキ科 アオキ属(ツンベルク)
イスノキ :Distylium racemosun Sieb.etZucc マンサク科 イスノキ属 (シーボルト)
ノリウツギ :Hydrangea paniculata Sieb. ユキノシタ科 アジサイ属(シーボルト)
2.鎖国の間に日本の植物が、どうしてロシアに渡ったのか・・ #
1853年ペリー艦隊が浦賀で開国を要求。翌年の1854年に5カ国間(米英露仏蘭)で 和親条約を締結し、長崎・神奈川・箱舘の3箇所を開港。後に横浜を追加開港。
長崎他3箇所の開港は、待ち望んでいた諸外国のプラントハンターにとっては吉報であり、続々と来訪したハンター達は、多くの植物を収集しては母国へ搬送。
この時期より50年ほど昔のこと、1803年にロシアはクルーゼンシュテルン提督の率いる世界一周探検隊を特に東アジア地域に派遣。
この航海には博物学者ランドスドルフ他2名が同乗。千島・樺太・長崎でも採集。ランドスドルフは最も多くの標本を持ち帰り、今でもペテルブルクの科学アカデミーに保管されているという。1805年長崎で採集したコスミレの学名に彼の名が残る。
《写真:コスミレ・Viola japonika Langsd》
問題は、どうして長崎の出島にロシア艦隊が入港できたのか。また、どうして上陸できたのか。さらに植物採集の行動など、とても理解できるものではない。当時の出島の様子を詳しく知りたいものである。
(文責:田代 誠一)
【参考資料】
プラントハンター・白幡洋三郎著・講談社
ジャポニカ百科事典
植物の世界・里帰りの植物たち・堀田満著
牧野日本植物図鑑・牧野富太郎著・北隆館 ほか