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植 物 談 義    第41話

 古代の北九州の森林林相は  

邪馬台国 女王卑弥呼と、もののけ姫サンが住む森林の様子

   
 「帆柱山系の歴史散歩」を進めていくうえで、少しだけ別の観点から「北部九州・帆柱山系」の自然植生の遷移と対比してみたいと思います。
 過去の植生は古くは縄文時代〜弥生時代の遺跡発掘が進むにつれて、かなりの生活様式が解明されてきました。特に貝塚は食生活の有り様を明確に残しています。

 この中に森林林相の産物が残されており、昔の「北部九州の山」を覗くことができます。それでは過去に遡って「縄文時代の森林」から見てみたいと思います。   


帆柱山の照葉樹林
 
   
 1.縄文時代の植物相など・・北部九州の様子は?・・
 

 

 各地の遺跡発掘調査や貝塚を分析することで、かなり詳しい生活様式や文化圏が明らかになってきました。日本全体を四つの文化圏に分けていますが、北海道南西部から東海・甲信にかけては「落葉広葉樹林・ナラ林文化圏」を、近畿から九州は「照葉樹林文化圏」を形成し、それぞれの立地条件に見合った分化様式を創生。
 
 縄文時代は今から「AD16,500年前〜3,000年前」の旧石器時代より後の時代になりますが、大きな違いは「縄目模様の土器、定住型の竪穴住居、貝塚や狩猟・漁労・植物採集」などの生活様式を形成したことです。 
 

 旧石器時代のキャンプ生活や移動式の様式から「定住的な生活方式」に変わったことで、居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開き、クリ・クルミ・トチノキなどを植えつけ、下層植生にはワラビ・ゼンマイ・フキ・クズ・ヤマイモ・ノビルなどを栽培。食料資源は採集するだけではなく「人工的に成育」を図ったことは大きな進歩です。

 
 縄文時代の気候は、BC4000年頃に最後の氷河期が終わって、地球の気温は徐々に温暖化に向かい100m以上もの海面上昇を経験。縄文海進と呼ばれています。日本列島の浮上。
 上昇の結果、朝鮮海峡が形成され対馬暖流が日本海に流れ込むようになりました。日本列島の山脈は季節風・寒風・豪雪を日本海側に吹き止め、豊富な雪解け水はブナ林やミズナラ林の落葉樹林を形成するようになった。縄文前期の植生は関東以西の太平洋沿岸部、九州や四国の沿岸部は照葉樹林帯に、それ以外は落葉樹が優勢であった。
 
   
 2.再び寒冷化に向かう縄文後期・・
   
縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、食料生産の低下、縄文人口の減少、貝類の好漁場の縮小、貝塚も消えていくことになりました。三内丸山大集落が突如として消えたのは「クリ栽培」が出来なくなったからともいわれています。(BC2000年頃か・・・)  

 
 芦屋町の山鹿貝塚 

 このような気候変動は植生には顕著であり、食料であった堅果類がクリからトチノキに急激に増加している遺跡もあり、またソバの栽培に変わった遺跡も確認されています。


 *縄文人が残した貝塚は「ゴミ捨て場」の解釈もあるが、むしろ「墓場・祭祀」の意味合いが濃厚である。貝類の他に鹿や猪の骨には子供のものは発掘されていないと言う。無駄な殺戮は「生命の循環」の思想を壊すものだとする縄文人の考え方に、納得の要因が多々あります。 
 
   
 3.北部九州の縄文遺跡・・・照葉樹林文化圏

 

 縄文時代の遺跡は、山鹿貝塚・黒崎貝塚・永犬丸遺跡・楠橋貝塚・寿命貝塚・新延貝塚・天神橋貝塚などの所在地から見て、現在では想像もつかないほど、海辺が内陸部の奥地まで広がっていたことがわかります。(気候の温暖化により4500年前まで海面は上昇)

 

 山鹿貝塚は海抜約15mの小高い死砂丘にあって、18体の人骨と鐘崎式土器などの発掘調査が行われました。このような遠賀川流域の状態を「古遠賀湾」、洞海湾も海進により「古洞海湾」と呼びます。


 縄文人の生活は、照葉樹林からカシ・シイなどの堅果類を、クズ・ワラビ・ヤマイモ等の根茎類を採集し、釣り針や魚網、木製くり舟を使って漁労を行い、イノシシ・シカ・ノウサギ・キジ・ヤマドリを狩猟。定住化に伴って漁猟や狩猟は男が、採集は女性が分担したのではと言われています。


アケビの実 

クリ 

ヤマノイモのむかご 
 
   
 4.弥生時代の板付遺跡・・・「弥生時代最古の環濠集落と稲作発祥地」

 

 紀元前3世紀、板付遺跡から水田跡地が発見され「稲作発祥地」として、また板付式土器の形態から弥生式土器と位置付け、紀元3世紀までの期間を弥生時代と呼んでいます。

 

 特徴は縄文時代の生活様式に大陸から稲作が伝わってきたことです。遠賀川の流域で上流からの肥沃土が堆積するのは「河口近辺」であり、現水巻町の河川沿いに「稲作発祥の地」の看板を見ることが出来ます。

 

 弥生時代後期には、石器から鉄器への移行が見られ武器の鉄製や農具の一部鉄製と木製、収穫用具の竹製・石切など進歩すると共に、収穫物は高床式の倉庫で保管する体制、さらに体制が進むと職分の専業化(耕作・漁業・製塩など)となり、共同体の中で身分差が生じるようになりました。この時代の様子が中国の史書・魏志倭人伝に書き記されています。

 

   
  遠賀川の稲作発祥地看板・水巻町          イヌシデとカマツカ
 
   
 5.魏志倭人伝にもとづく北部九州の植物相・・邪馬台国は九州説か、近畿説か・・

 

 3世紀頃の倭国の様子を記録した唯一の資料が魏志倭人伝(正式には「三国志」魏書巻30東夷伝倭人条)。2008文字の漢字で書き表したのは晋の国の官職にあった「陳寿」が280〜290年にかけてまとめた書物で、正史であることから信頼性は高いと言われています。

 

 邪馬台国の経路のうち帯方群から海路を経て対馬と壱岐を経由して九州に至る所から概要をまとめると、先ず、対馬国の様子は山は険しく深林が多く、一支国は竹木や叢林が多く、一海を渡り末蘆国(唐津地方)に至る。伊都国(糸島郡)から奴国(福岡市近辺)経由して不弥国(宇美町付近か?)までは定説があるにしても、この先邪馬台国に至る途中の様子が書き記されています。
 【邪馬台国は九州説と近畿説に分かれ、女王卑弥呼の所在地は未だに発見されていません。】

 

 【魏志倭人伝の要約】  
◆ 倭の地は気候温暖で冬も夏も生野菜を食べる。人々は稲、カラムシ(植物繊維)、蚕を飼い、細い糸をつむぎ布・絹・真綿などを作る。

◆ その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。兵器には矛・楯・木弓を用いる。竹の矢は鉄や骨の鏃を使う。

◆ また、しょうが・たちばな・さんしょう・みょうが・があるが食材であることを知らない。おお猿、黒いキジもいたと記述。

 ◆ 倭の地は真珠、青玉を産し、山には丹がある。樹木はクスノキ・シイ・タブノキ・ムクノキ・クヌギ・イチイガシ・アカガシ・ヤマグワ・カエデがあり、竹にはササ・ヤタケ・かづらだけ・などが繁茂。
 

 この樹種から想像できる森林植生は、常緑広葉樹を主体に、一部カエデ・クヌギの落葉広葉樹を含んだ暖温帯(本田説)・常緑広葉樹林(吉岡説)・常緑広葉樹林帯(菊池説)と言うことができる。
 *注 ・丹とは赤色の顔料・中国では白色の粉を塗る風習がある。

                                                    帆柱山の照葉樹林 
 
   
 6.もののけ姫・舞台は「ナラ落葉樹林文化圏」と「照葉樹林文化圏」を背景に・・

 

 あらすじは、ナラ林文化圏の蝦夷の少年(アシタカ)と照葉樹林文化圏で育った少女(サン・もののけ姫)が出雲で出会うことでドラマが展開していく。そこでは鉄生産のため山林を伐採するタタラの民衆(長がエボシ御前)と自然保護派である「人間不信の山犬一族(長がシシ神)」との間で壮絶な戦いを展開。・・・以下の ◆ タタラ製鉄と環境問題に続く・・・

 
 日本の北半分は、温帯落葉広葉樹林帯(別紙の資料・菊沢説参照)に属しブナ・ナラ・トチ・クリ・カエデなどの落葉生の林相が主体である。これを「ナラ林文化」と名付けたのが「中尾佐助氏(著作:栽培植物と農耕の起源ほか)」である。

 

 特徴は照葉樹林帯よりも食糧資源が豊富であったこと、保存が出来る堅果類も多く、林床にも日照がよく届き下層植生が繁茂し、狩猟動物も多種類であった。当然、人口は照葉樹林帯より多く賄うことができた。その証は縄文時代の遺跡群が圧倒的に東北日本に集中していることから証明できる。

 

  堅果類(クリ・クルミ・トチ・ドングリ)、球根類(ウバユリ)、動物(熊・鹿・トナカイ・海獣)、漁撈(サケ・マス)など、狩猟・採集の文化圏から縄文文化は発展したと言える。 

 

 方や弥生式文化は西日本の稲作発祥を中心に展開したが、現在、発祥地点や時代区分が議論されている。縄文時代の後期には稲作をやっていたということもあり、また、西日本が大陸に近いこと・温暖であること・だけでは発祥地は決めがたい学説もある。照葉樹林文化圏はナラ文化圏に比べて食料不足であったからこそ、米作を必要とする実態論を聞くこともある。 


◆ タタラ製鉄と明治維新
 日本列島はニュージーランド・カナダと共に砂鉄の世界三大産地と言われています。
日本の鉄鉱石と砂鉄の産出を比較したとき、純度の高い砂鉄に恵まれていたことは古代社会の創生に幸いし、鉄器製品は時の権力者にとっては、絶対的な必需品であった。
 砂鉄は不純物が少ないため優秀な製品の製造(日本刀など)に適しており生産地の出雲地方は古代から時の政権の注目するところとなり、早くも縄文時代の後期から弥生時代を経て、利権が絡む経営権を巡り幕藩体制の確立期まで争いの元であった。日本の製鉄は鎖国のため明治維新まで「タタラ製鉄」に依存してきた。出雲地方は徳川時代は松江藩の領地。


  歴史は繰り返すと言われるが、過去の鉄器の必要性の理由(国力と武器)と、近代国家の建設を急ぐ明治政府の政策(国力と武器)は、製鉄の自前工場の建設に現れており、緊急課題の実現のため近代的手法による製鉄所が1901年八幡の東田で点火されたことは誰もが知るところです。 

 
 日清日露戦争(1894年:1904年)時は飛躍的にタタラ製鉄が活気を帯びたが、その後は近代的技術の製鉄所には勝てず、古代から営々と続いた奥出雲のタタラは、八幡製鉄所の操業によって下火となり滅んでいったのです。

 
◆ タタラ製鉄と環境問題
 タタラ製鉄の「鉄山秘書」に「一に砂鉄、二に木山、三に元釜戸」と述べているように、砂鉄がよくても炭が悪 ければ鉄は涌かず、砂鉄が多少悪くても炭が良ければ鉄が涌くとした。


  製鉄には大量の木炭が欠かせないことから、立地条件は「森林地帯で、水利用と排水・農村より隔離」などの場所が選ばれた。


  木炭を確保するために年間60ヘクタールの森林が必要となり、凡そ30年で再生する照葉樹林の活力から見ても「1,800ヘクタール」の膨大な面積が必要であった。職種は伐採・運搬・砂鉄採掘・炭焼き・タタラ踏み ・鍛冶・鋳物師など大世帯の産業共同体を構成していた。 


   このような鉄生産に係わる集団は、時の政権から「特権集団」の保証のもと操業していましたが、上流の山肌は削られ、排水は泥土となり、農地は水害で荒らされるなど、下流域の農村はタタラの民と度々対立関係にあったことは史書に残されています。

 奥出雲の大山林地主の「田部氏・桜木氏・糸川氏」などの高戸(たたら)は、明治維新まで続くのですが、近代的な技術には勝てずやがて滅んでいきます。

                                                (文責 : 田代 誠一)

 
   
   

 ★ 参考・・日本四大公害病
 ○水  俣  病 ・ ・ ・ アセトアルデヒド生産工程で触媒の水銀が工場排水として水俣湾に流出。
                 それが有機水銀となり魚介類に高濃度となって蓄積。食した人が発症。
                 熊本県チッソ水俣工場。

 ○イタイイタイ病・ ・ ・亜鉛を精錬した残りかすにカドミニウムが残留・岐阜県神通川の下流域の
                  水田を汚染 ・・三井金属工業神岡鉱山。
          

 ○第二水俣病 ・ ・ ・ アセトアルデヒドを生産中に、メチル水銀を放出したため新潟県阿賀野川
                 下流域の魚に残留 ・・昭和電工鹿瀬工場。


 ○足尾銅山鉱毒事件・・ 銅山の開発の排煙・鉱毒ガス・鉱毒水などの有害物質を周辺に排出
                 群馬県渡良瀬川周辺 ・・古河鉱業。

 ○その他にカネミ油症・四日市ぜんそく・なども公害病。

 

 
   
 
   
   
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