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植 物 談 義    第13話
  「江戸時代・日本産植物にまつわる外国人の活躍の様子」
学名の発表は、日本の植物熱を高めていった・・植物ハンターの来日・・

 

 1635年邦人の海外渡航と帰国を厳禁。徳川幕府は1636年に長崎に出島を構築し、蘭人と中国人のみの貿易は可とするも、他の外国交易を禁止し鎖国政策を完成させた。

 

 出島商館に勤務する医者は次々と交代したが、その中でも有名なケンペル・ツンベルク・シーボルトの3人の活躍は、先に記述した「鎖国の時代も羨望の的であった日本の植物」の中で述べたが、今回は鎖国の時代から開国にかけて、自生する植物とプラントハンターにまつわるロマンが中心課題である。

 

 

 外国人の手をえて移出された植物は、分類学上の学名を付すことで、ヨーロッパ社会で認知されるようになり、国産植物はますます人気を高めていった。

 

 
   
1.植物の学名に残る外国人との因縁話
1.海峡を隔てた日英間のロマンは、常緑樹のアオキが主人公


  1775年に雌木だけが日本から移出されたが、常緑性であることからイギリスでは人気植物となる。何とかして赤い実をつけさせようと、雄木の収集目的でロンドンの園芸協会から 派遣されたのが「R・フォーチュン」である。

     

 1860年イギリスに届いた雄木は、1864年に真紅の実をつけ一般に公開されたという。 雌木と雄木の交流は何と90年もかかって花粉交配に成功。求める人の執念が感じられる。 アオキを初めて学会に報告したのは、出島のオランダ商館医ツンベルクである。

 

 ミズキ科・アオキ属・アオキは、関東以西から沖縄に分布、常緑低木で葉は対生、粗い鋸歯縁、4〜5月開花、雌雄異株、(学名:Aucuba japonica Thunb.・・ツンベクの名が残る)

 

 その他にもツンベルクの発表した植物は、ハコネウツギ、ヒサカキ、サザンカなどで、ツバキ科・ツバキ属・サザンカの学名に、Camellia sasanqua Thunb.とツンベクの名が残る。

 

アオキの雄花 アオキの雌花 ヒサカキの雄花 ヒサカキの雌花
 
   
2.函館とロシアを結ぶ師弟愛は、イヌシデ等に刻まれる


  ロシアのマクシモビツチは若い頃から植物採集の探検に参加。「アムール地方植物誌」を出版。1860年に函館に到着。以降日本の植物調査を目的にして函館〜横浜〜長崎で植物採 集したあと、14ヶ月の滞在であったが喜望岬を経由して1864年にペテルブルクに戻る。

 

 函館滞在時に助手として雇われた須川長之助は、西洋式の採集法や標本作成を学び、日本のプラントハンターとして精力的に植物採集を行う。マクシモヴィッチがロシヤに帰った後も、長野・岩手・秋田・青森方面で採集した植物標本をペテルブルクに送り続けたという。

 

 マクシモヴィッチは彼の功績に報いる意味もあってか、「長之助種」として学名に残したことは、日露間の師弟愛の現れだと感じている。

 

 カバノキ科・クマシデ属・イヌシデは、本州〜九州〜朝鮮〜中国に分布、落葉高木、葉は互生、鋭鋸歯縁、4〜5月開花、雌雄同株、(学名:Carpinus tschonoskii Maxim.・・・長之助の名が残る)

 
   
3.シーボルトとミュヘン大学のツッカリーニの共同発表


  シーボルトが収集した植物の分類学的な研究は、ほとんどミュヘン大学教授ツッカリーニに依頼したことから「et Zucc」と共同者の命名となっている。(Zuccariniの略)

 

 マンサク科・イスノキ属・イスノキは、本州西南部〜沖縄〜中国に分布、常緑高木、有柄で互生、革質で全縁、4〜5月開花、両性花は上部に雄花は下部につく雌雄同株。


(学名:Distylium racemosun Sieb ・et Zucc ・・・シーボルトとツッカリーニの連名)

シーボルトの発表した植物は、キブ シ・ノリウツギなどの他、相当数にその名を残す。

キブシの雄花 キブシの雌花
 
4.C・Sサージェントは樹木学の権威


 1892年渡来、アメリカのアーノルド樹木園園長でプラントハンター。樹木学の権威者は 東北〜北海道を旅行。日本の針葉樹を研究し、後に「日本森林植物誌」を著作。

 

 バラ科・サクラ属・オオヤマザクラは、本州中部〜北海道に多く分布、落葉高木、葉は互生、 葉柄上部に蜜腺2個、三角状単鋸歯、4〜5月開花、(学名:Prunus sargentii Rehd)

 
   
2.英国公使館の日本語書記官・アーネストサトウの功績


  1862年に19歳で通訳生として来日、その後書記官となる。1882年に離日するまでの約17年間滞在し、その間に数十回の国内旅行を行った時の様子を「中部・北部日本旅行案内」として出版。ガイドブックとしての役割をはたす。他にも多くの論文を発表。

 

 有能な外交官であった彼は、明治維新の際に幕藩体制の存続と薩長連合の新政権構想の対立に間近に接し、英国をして辿るべく道筋を誘導したのは彼の功績によると言われている。  「一外交官の見た明治維新」は維新史の重要史料。

 

 武田かねとの間に生まれた次男、武田久吉は東京外大卒から英国へ留学、バーミンガム大学卒後キュー植物園で研究、理学博士に。学位論文は「色丹島植物誌」にみられるように高山植物が専門である。

 

 約220年間の鎖国は、国内での植物学や分類学の遅れをもたらし、持ち出された植物の学名は、採集した外国人の名前が大半である。日本人の発表は明治中期以降のことになる。一方の見方は、いち早くヨーロッパ諸国に日本の植物が知れわたったことは、大きな利得だとしながら鎖国政策の損得を計りたいものである。

 

(文責:田代 誠一)

 
   
   

【参考資料】

プラントハンター  白幡洋三郎著 講談社

ジャポニカ百科事典  植物の世界 里帰りの植物たち 堀田満著

牧野日本植物図鑑  牧野富太郎著 北隆館 ほか

 
   
 
   
   
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